「あなたは愛する人を救えますか」
河村循環器病クリニック 院長
河村剛史

Vol.23:自宅で死ねることの喜び
  平成13年5月21日午後17時30分に義父が永眠した。77歳であった。平成11年8月頃から咳をするようになり、念のため胸部レントゲン線写真を撮った所、気胸と胸水貯留が認められ、精査のため県立成人病センターに入院した。胸腔内視鏡検査を行った所、3リッターの胸水と右肺門部の扁平上皮癌の胸腔内転移が見られ、この時点でステージ3bの診断を受け、今後の胸水貯留を防止するために胸膜癒着術を施すのみで根治術を残念した。
  本人、家族には肺癌であったことを告知し、今後は癌と共存する治療方針を確認し合い、体力を消耗する抗がん剤治療を受けないことにした。退院後、徹底した脂肪抜き食事療法と毎日1万歩の歩行運動を行い、下肢筋力の強化を日々の生活目標とした。退院後1年間は毎日、少量の血痰が出る程度で家族旅行も楽しむことができた。
  しかし、肺癌との共存を目指したものの、血液中の扁平上皮癌マーカは検査ごとに増加し、胸部レントゲン写真でも右胸腔内転移した癌が少なくとも3箇所で大きな影としてはっきりと認められた。胸膜癒着のために胸水は出口を求めて皮下に腫瘤として膨隆するようになり、誰しも肺癌の進行が明らかになってきた。
  平成13年に入ってからは、次第に毎日の歩行運動後の疲労が激しくなり、冬の寒さも考慮して家の廊下を歩くことにした。幸いにも食欲は本人の生きる意欲を示すがごとく4月半ばまで目立って衰えることはなかった。5月4日の2人娘家族10人が集まった最後となった食事会でも、以前と変わらない食欲があり、家族が驚いたほどだった。しかし、この日を境に寝る時間が多くなり、運動意欲もなくなり、次第に毎食の食卓とトイレだけが歩行訓練になる生活に変化していった。入院せずに自宅看護を行うために在宅看護ステーションに依頼し、5月7日から週2日看護体制をスタートした。5月13日には私の家族と一緒に季節はずれのすき焼きをし、制限していた好きだった肉も食べてもらった。
  この頃から、痰の量が多くなり、呼吸苦の訴えが多くなってきた。19日の夜には娘家族全員が集まり、最後まで自宅で看病してほしいとの義父の希望と急変しても救急車を呼ばないことを確認した。今後に必要になってくる喀痰吸引器と酸素吸入を依頼しようと考えていた。翌20日の夜中は死を意識した不安からか義母に傍についてほしいと頼み、義母からは呼吸音がゴロゴロといって痰を出せずに、ほとんど眠れなかったとの話を聞いた。
  翌朝の訪問看護日の5月21日には朝から訪問看護婦と一緒に喀痰の喀出介助を行ったが、その最中に喀痰の気道閉塞による呼吸停止が起こった。バッグマスクによる人工呼吸により呼吸は回復したものの依然、大量の喀痰があり、掃除機に接続した吸引ノズルによる喀痰の吸引で危機を脱することができたが、意識は朦朧状態が続いた。孫4人を含め家族に危篤を知らせ、全員が集合するまでどうにか生命を保ちたいとの思いがかなったのか、緊急依頼した輸液と酸素吸入を開始したこともあって朦朧状態から意識がしだいに回復し、家族の呼びかけにはっきりと応えるまでに回復してきた。
  しかし、バッグマスクによる補助呼吸を続けなければ呼吸維持は難しく、気管内挿管、人工呼吸器による延命治療が必ずしも本人にとって幸せではないと判断し、非情にも「これが最後の意識である。観念してほしい」と告げると、義父は現在の置かれた状況をしっかりと認識したのか、「夫婦として一緒になれて幸せであった」と耳元で叫ぶ義母に、声で応えることができない義父は最後の力を振り絞って3回も義母を抱合し、2人の娘にも孫にも抱合し最後の別れを告げた。急変を聞いて駆けつけてくれた4人の訪問看護婦さん一人一人にも握手を求めて感謝の気持ちを表した。
  最後の一片の命を振り絞った義父の最後の行為は、死を受け入れ観念した仏の姿にも思えた。そこには、涙と悲しみだけではない、笑いも、喜びもあった。その30分後に家族に見守られながら静かに息を引取った。義父の死に行く姿を間近で見ることのできた子供たちに「尊厳ある死とは何か」を見事に見せてくれた。家族と共に死を見つめあった1年10ヶ月であった。

 続く


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