「あなたは愛する人を救えますか」
河村循環器病クリニック 院長
河村剛史

Vol.56:Do Not Resuscitate (DNR)、心肺蘇生は行わない

  2004年3月8日に母が亡くなった。享年87歳の大往生であった。母には私の祖父母、父の3人の介護の経験がある。その母が日頃話していたことは、死ぬまでトイレは自力で行くことであった。
  また、阪神・淡路大震災では、崩壊した家屋の瓦礫の中から救出され九死に一生を得た強運の持ち主である。震災後、神戸の自宅の再建をあきらめ、兵庫県氷上郡柏原町の実家で一人暮らしをするようになった。幸いに田舎の家は、表玄関から裏庭まで約50mの土間が通じており、元来、元気な母にとって日常生活そのものが適当な歩行運動になっていた。近所付き合いも気に入っているようで、都会より田舎の方が高齢者には過ごしよい環境と言っていた。
  2004年正月を田舎で一緒に暮らそうと姉が実家に帰ってきていた年の暮れに転倒し腰を強打した。幸いに姉が家事をしてくれるので母は非常に喜んで腰の痛みがなくなるまでと家事を任せていた。体重も軽く関節痛もなく若い時から足腰を鍛えていると自負していた母には、腰の痛みは安静にすれば直ると考えていた。
  母には会う度ごとに、足腰は積極的に動かさなければ筋力はすぐに衰える危険性があることを言っていたが、腰の打撲の痛みがなくなり動き始めると筋力の衰えによりまた転倒することを何度か繰り返し、痛みのためにますます動かなくなる悪循環となった。
  家族による介護の大変さを熟知していた母にとって、痛みがあっても自力でトイレに行くことと水分は必ず身体を起こして飲むことを実行した。私は、高齢者の脱水は脳循環を低下させボケにつながるので、深層水を定期的に飲用することが重要であることを母が元気な時に話していたが、呆けるのを嫌っていた母はこのことだけは守っていた。しかも誤嚥防止のためと言ってストローで飲む用心さも持ち合わせていた。
  死亡した3月8日は、健康センターが休みなので母の顔を見に実家に帰って診察をした。表情がいつもの母の顔ではなく、私の顔をみて兄の名前を言うので、子供の顔を見間違えるようではもう命も長くないと母に言うと笑っていた。姉が朝から葛湯しか飲んでいないと言うのでこの2,3日の命かなと直感した。
  母がベッドのそばの簡易トイレに起き上がって行く姿が苦しみに満ちており、心臓にも過剰な運動負荷がかかり一過性に心房細動になったので、母にはもう自力ではトイレは無理であると言った。その時、2,3日前に作った歌を私に見せたが、紙には「しんどさを 誰がわかるか 栄子春」と書かれていた。まさに辞世の句となった。
  姉には母は寝ている間に死んでいるよう気がするから驚いても救急車を呼ばないように、また水分を摂らなくなっても点滴をせずに自然経過を見るようにと話して神戸に帰った。しかし、別れ際に母は笑顔を浮かべながら「また来てね」と言ったくらいでその夜に亡くなるとは思っていなかった。
  夜の7時に母は苦しい思いをしながらもトイレに行ったので、姉はしばらくの間と思いベッドの傍で安心して寝込んでいた夜の9時、電話の音で目覚めた時には母は亡くなっていた。母はトイレに行こうとしたのではなく、床の間の仏壇の方に行こうとして命の火が燃え尽きたのである。母の死を悟った"死に様"の凄さを思い知らされた。
  母が私に残したものは、介護には介護される人間の"生き様"を支援する個別の介護の重要性である。生涯自立を信条にしている人には、生涯自立を支援する介護センターが必要となる。現在の社会では、80歳を超えた人には筋肉を鍛える意欲と専属の筋肉トレーナーの指導が必要である。筋力こそは気力、生きる力と考えている。

 続く

Copyright(c) Tsuyoshi Kawamura, M.D.