「あなたは愛する人を救えますか」
河村循環器病クリニック 院長
河村剛史

Vol.67:
ひょうごラジオカレッジ:「あなたは愛する人を救えますか」

  心肺蘇生法の普及啓発を始めたきっかけは、米国留学中の1986年1月22日に松江で行われたダイエー対日立のバレーボール試合中、フロー・ハイマン選手が突然死で死亡したテレビニュースです。このニュースを見た米国の友人が、「何故、日本人は心肺蘇生法をしないのか」「監督やコーチは何故,タイムにしないのか」「選手の命より試合のほうが大事なのか」と批判しました。
  フロー・ハイマン選手は、ロスアンゼルス・オリンピックの銀メダリストで、リター・クロケット選手とともに新生ダイエーチームに加わり、当時88連勝中の日立に勝った有名な試合でした。
  今まで多くの心臓患者の救命を経験しているにも関わらず、ハイマン選手が控えのベッチで突然倒れ、試合が中断されることもなく会場から担架で運び出される光景を見て、米国の人は、100人が100人とも「何故心肺蘇生法をしないのか」と叫んだのかが理解できませんでした。
  米国では、国民病と言われている心筋梗塞による心臓突然が社会問題となっており、その対策として、1972年から学校保健体育で中学1年生から心肺蘇生法が教えられていました。
実際、ミドルスクールでの心肺蘇生法の講習を見学してその疑問が解けました。実技講習では、意識を確認し、意識がなければ救急車を呼ぶ「命の教育」がなされていました。
  目の前で倒れた人に、「大丈夫ですか」と声をかけ、反応がなければ「誰か来て」と叫ぶ訓練でした。命を意識のあるなしで判断する「命の教育」は日本では行われていませんでした。私が、日本人にこの「命の教育」を伝えなければならいという使命感が目覚めた瞬間でもありました。

  帰国前、米国における「市民による心肺蘇生法普及」の先駆者であり、「心臓で倒れるならシアトルで」の標語で有名なハーバービュー・メディカルセンターのレオナルド・A・コブ教授を訪問し、私が、日本において「市民による心肺蘇生法の普及啓発」を行う決意を申しました。
  この時、コブ教授から教えていただいたことは、市民の意識を変えるには、25年以上啓発活動を継続する必要がある。君にはこの決意があるのかの問いかけでした。
一般市民に啓発することよりも学校教育にて生徒に心肺蘇生法を教える体制を作ることが最も効率的な社会啓発につながることも教えてもらいました。

  1980年代の日本の救急体制は、119番に通報すれば救急車が到着し、救急患者受け入れの当番病院に搬送される「輪番制」ができていました。救急指定病院といえども、単なる急病人の受け入れで、救命には不可欠な除細動器の設備はなく、救命処置を行える病院はわずかでした。心臓が原因で死亡すれば急性心不全と診断され、まだ当時、「心臓突然死」の言葉はありませんでした。
その後、新しい救急体制として、患者の重症度別に1次、2次、3次救急と救急指定病院が振り分けられ、生死に関わる最重症患者を受け入れる3次救命救急センターが各地に設立されました。

  帰国後、兵庫県立姫路循環器病センター救命救急センター長となり、1987年から日本人には教えられていない「命の教育」の普及啓発のために心肺蘇生法の普及活動を始めました。
コブ教授の助言に従い、まず、兵庫県教育委員会体育保健課にアプローチし、生徒の命を守る養護教諭に対して心肺蘇生法の講習を開始しました。最終的には、400校以上の学校を訪問し、教職員、生徒に「命の教育」を語り、心肺蘇生法の実技講習を行うことができました。

  一般市民に対しては、各地域の自治会、婦人会を中心に普及啓発活動を行いました。
「あなたは愛する人を救えますか、もし目の前であなたの愛する人が倒れたなら、あなたは愛する人を救えますか」、「心臓が停止すると4分で脳がだめになります、まず、自らが心肺蘇生法を行い、救急車の到着を待ちましょう」とアピールしました。

  当初、仕事が終わってから、夜、姫路市の公民館を回り、健康講座の一環として心肺蘇生法の実技指導を行いました。当初、訓練用人形は1体しかなく、時間的な制約もあり、希望者のみ実技指導を行い、全員に指導することはできませんでした。
 「45歳以上の男性で、心臓突然死の4割は、家庭で起こっています」、「奥さん、いざと言う時のために心肺蘇生法を学びませんか」と訴えても、ほとんどの参加者には「命の危機意識」はなく、「いざと言う時は救急車を呼べばよい」と思っていました。

  当時、心臓が原因でなくなった場合には急性心不全と診断され、助からない病気でした。心臓が停止していても、一般市民は、その命の危機状態を知る手段を知らず、「まだ、身体が温かい」と感じて、ひたすら救急車の到着を待ち、救急車が到着したら「これで助かった」と思うのが普通でした。救急隊員が人工呼吸、心臓マッサージをしながら救命救急センターに搬送されても、ほとんど救命することはできませんでした。

  心臓突然死でなくなった家族から消防局に「救急車の到着が遅れたから主人が助からなかった」と抗議があり、消防局から「救命救急センター長が、市民に4分以内に救急車が到着しなければ助からない」と言っていますが、「姫路市では通報から救急車の現場到着時間は平均6分以上かかります。これ以上の時間短縮は無理です」と言われました。

  姫路市での公民館活動にて「心臓が停止すると4分で脳がだめになります、まず、自らが心肺蘇生法を行い、救急車の到着を待ちましょう」と訴えていたことが、市民の中で「4分以内に救急車が現場到着する」と間違った解釈が一人歩きをしていることを知りました。
  中途半端な心肺蘇生法の実技講習は、かえって、間違った情報を市民に伝えことになると反省し、少人数でも全員に徹底的に心肺蘇生法を教える方針に転換しました。

  こうした中、山間部の小さな小学校から心肺蘇生法講習の依頼を受け、20人程度の教職員全員に手順を間違いなくできるまで徹底的に教える機会をえました。実技講習が終わり、教頭先生の話の中から私の話に欠けていたものを教えてもらいました。
  「20年前の新任教師の頃、一人の生徒をなくしました。今日、教えてもらった心肺蘇生法を知っておればあの生徒を助けることができたのにと思って講習を受けました」と話されました。20年前には心肺蘇生法は開発されていませんでしたが、心肺蘇生法を行う以前の、人の命を救う最も大切な「人間の行為」を知りました。それは「目の前で倒れた生徒をどうすることもできず、抱き抱えて、名前を泣き叫んだ」と話されたことでした。
  今までの実技講習会で私に欠けていたものは、「4分以内に心肺蘇生法を行わなければ、死に至る」と言う医学的な話ではなく、救命救急の原点は、目の前に倒れた人の「命を惜しむ心」であることを悟りました。それ以後、実技講習の前の動機付けに、日本人の「心の感性」に訴え、全員参加の実技講習を目指しました。

  こうした活動の中、幸いにも当時の兵庫県知事、貝原俊民知事の目に留まり、兵庫県では1990年から心肺蘇生法普及啓発が県民運動として取り上げられ、「命を大切に、あなたも心肺蘇生法を」をテーマに5年間で100万人の講習を目指しました。全県挙げて県民108万人に心肺蘇生法の講習を行うことができました。

  私が行った心肺蘇生法普及啓発の戦略は、まず、実技講習の前に1時間の動機付け講演を行い、「命を惜しむ心」を訴え、「他人の命を守ることが自分の命も守られることになる」「お互いの命を守る社会づくり」の参加を呼びかけました。
  全員参加の実技講習を行うために、訓練用人形1体につき受講者10人単位で行う実技体制で行いました。そのために多くの訓練人形を購入しました。
当時、関連団体が独自の指導マニュアルを作成し、指導法もまちまちでした。 その基本となっているアメリカ心臓協会の心肺蘇生ガイドラインを採用し、100人が100人とも同じやり方で1連の連続した手順を教えました。
  いざと言う時に完璧な心肺蘇生法ができるように、徹底的に手順を身体で覚えることを目指しました。最後に参加者全員が人形1体を中心に円陣を組み、一人ずつ心肺蘇生法を行い、手順を間違えれば、その場で「特訓!」と叫び、再度、挑戦して最後の一人が合格するまで何度でも行いました。
  特に強調したのは、「大丈夫ですか」と意識を確認し、意識がなければ「誰か来て」を身体で覚えることでした。

  しかし、県民運動を達成したにも関わらす、私は5年間の普及活動を通じて「日本人には心肺蘇生法の普及は無理である」との悲観的な印象を持ちました。
  日本での心肺蘇生法の普及を妨げているのは「日本人の国民性」にありました。「空気と水と安全はただ」と考えている島国国家に住む日本人には,自分の命の危険を感じることがないばかりか,いつしか他人の命の危険にも鈍感になっており、その上,他人とのかかわりを避けようとする国民性は,目の前で倒れた人の命ですら積極的に救おうともせず,救急車を呼べば良いとの考えが当たり前の世界となっていました。

  「命は誰のもの」と問いかければ、日本人は自分のものと答えます。キリスト教社会の欧米人は、神のものと答えます。目の前に人が倒れたなら、その命を救うことにためらいはなく、命を救うことは人間愛であり、その人が生きた人生、これから生きる人生を救うことになるのです。

  日本人には心肺蘇生法の普及は無理だと啓発活動を諦めかけていた気持ちを再度、奮い立たせたのは、1995年1月17日阪神淡路大震災を経験したことでした。
私も被災者となり、救命救助に参加しましたが、瓦礫に埋もれた肉親を助け出そうと大声で必死に声をかけている人を見て、周囲の人も必死に救出に加わりました。
  日本人は、「助けて!」と「命の危機」を必死に叫べば、日本人は必ず動いてくれることを確信しました。日本人には、「危機を知らせる声」が必要なのです。
  それ以後の心肺蘇生法の実技講習では、「大丈夫ですか」と声をかけ、意識がなければ「誰か来て!」を誰よりも大きな声で叫びました。いつしか、私の実技講習のトレードマークになりました。

  心肺蘇生法の普及活動での思い出をいくつか紹介したいと思います。

  相生市の中学校でQT延長症候群と言う心臓病で倒れ、救命された新入生を守るために1年D組の同級生に心肺蘇生法を教え、それが1年生全員に教えることになりました。次の年の新入生に元1年D組の生徒が上級生として心肺蘇生法を教え、また次の年には3年生になった元1年D組の生徒が新入生を教え、元1年D組の生徒が卒業した後も上級生が新入生を教える体制が出来上がりました。6年間毎年、実技講習を行いました。
  実技講習の前に、心肺蘇生法の大切さを教える動機付けの話をしました。事前に学校から生徒の質問内容を送ってもらい、講演の話の中に盛り込んでいました。
この中に、「どうして人を殺してはいけないのですか」との質問が入っていました。どんな質問にも答えると言った手前、無視すると質問した生徒が「なんだ 答えられなかった」と吹聴する姿も目に浮かびました。何よりも先生方がこの難問を私がどう答えるかと興味を持って見守っていた気がしました。中学1年生に対して「法律で罰せられる」「天罰が下る」では答えにならず、しばらく自問自答の日々が続きました。

  私の答えは「わからない」でした。
  しかし、「私には信じているものがある」「心肺蘇生法で命を救うことを学んだ同じ手で、人は殺せない」と信じているから、毎年、実技講習を教えに来ているのだと言いました。「一人の生徒の命を守ることが、自分の命も守られている」ことを学んでほしいとも言いました。

  身体障がい者に対しても、「その人ができる心肺蘇生のやり方」を教えました。
  聾唖の人、全盲の人、両手のない高校生、頚椎損傷で上下肢が動かない車椅子の高校生、半身麻痺の車椅子の女性などに対して、「身体障がいがあるから、助けられなかったと言ってはいけない。何ができるかが大切である」、「命の前では、障がいはない」ことを話し, 心肺蘇生法は「他人の命を助けようとする必死の行為」であることを教えました。

  姫路の高等学校で脊髄損傷の生徒に実技講習を教えた時の話です
  体育館に集合した生徒の最後尾に車椅子の生徒が目に入りました。話の中、車椅子の生徒を意識して「身体障がいがあるから、助けられなかったと言ってはいけない。何ができるかが大切である」、「命の前では、障がいはない」ことを話しました。
  動機付けの話が終わり、各班に分かれて実技講習を始めようとした時、その生徒はなぜか友人に車椅子を私の目の前まで押してもらい、「私にも心肺蘇生法ができるか」と少し荒立てた声で問いかけました。見ると車椅子に両手、両足、胴体を縛りつけた状態でした。一瞬、戸惑いましたが、「君にも立派な心肺蘇生法ができる」「目と口があるから、目の前で人が倒れたなら、大声で助けを呼び、駆けつけた救助者に今から教える心肺蘇生法のやり方を口頭で指示をすればよい」と答え、彼に1つの班の指導してもらいました。
  後日、校長先生からお礼の手紙を頂き、彼の置かれた立場を理解しました。
彼はプール事故で頚椎損傷を起こし、両手、両足が動かなくなりました。本人の強い希望にて同じ高校で卒業まで車椅子にて通学するようになりました。
  ただ、今まで生徒の中でもリーダー的存在であった状況から一転して、これから一生、誰かの世話なしには生きていけないことが彼の最大の悩みでした。
「自分にも世の中に役に立つことある。それは目の前に人が倒れたら、大声で助けを呼び、口頭で命を救うことができる」と自分の世の中での存在意義を見出したと手紙に書かれておりました。

  心肺蘇生法の普及が広がりを見せる中、期待された心臓突然死の救命率の向上はわずかで、 救命された事例が報告されるようになった反面、心肺蘇生法の限界でもありました。 

  1992年に発表されたアメリカ心臓協会の心肺蘇生法ガイドラインでは、意識がなくなってから4分以内に心肺蘇生法を行い、8分以内に電気ショックによる除細動を行えば、50%の人が助かることが発表されました。当時の日本では、救命センターにできるだけ早く搬送され、病院で除細動を行うしか方法はありませんでした。これは、時間的に救命できないことを意味していました。

  心肺蘇生法国際ガイドライン2000が世界に発表され、意識がなくなってから5分以内に半自動体外式除細動器(AED)にて除細動ができれば50%の救命率が得られることが公表されました。一般市民によるAED使用の有用性が書かれていました。
  心臓突然死は、心臓が痙攣する心室細動が原因で起こり、全身に血液が送れなくなる心停止状態に陥ります。1分経過すれば10%救命率は低下し、早急にAEDにて電気ショックを行い、心臓の拍動を再開できなければ救命できないと明言されました。

  しかし、当時、日本においては、医師法16条に電気的除細動は医師のみが行える医療行為と定められており、1991年に制定された救急救命士制度では、救命士は現場での心電図を救命センターに電話伝送し、医師の指示にて除細動ができることになっていました。医師の指示なし除細動ができるようになったのは2002年4月からです。

  2006年5月に兵庫県にて「のじぎく国体」が開催されることになり、競技参加者、観衆の命を守る体制づくりには会場内にAEDを設置し、一般ボランティアによるAED使用が不可欠と考えました。
 2003年に兵庫県において一般市民がAEDを使用でできる構造改革特区を申請し、2004年7月から日本でも一般市民がAEDを使用することが認められました。
  兵庫県「のじぎく国体」では各競技会場内に870台のAEDが設置され、別名「AED国体」と呼ばれるようになりました。

  現在、公共施設、商業施設や学校、駅、空港など一般施設を中心に40万台以上のAEDが設置されて、世界でもトップクラスの普及率であり、意外な場所でも目に付くようになりました。特に、学校では100%に近い普及率です。

  2014年の救急統計では、目の前で倒れた心臓突然死患者数は約2万5000人で、1ヶ月後社会復帰された人は約2000人で7.8%の人が救命されました。
市民によるAED使用は907人、3.6%の人しか使用されませんでした。しかし、AEDによる除細動を行った患者の50%が救命されており、いかにAEDを早期に使用するかが今後の課題になっています。 
  「一般市民がAEDを使用でできる構造改革特区」の検討委員会では、心肺蘇生法の「命の教育」を行わないAED講習は、単なる機器操作を覚えるだけになると事前の心肺蘇生法講習の重要性を強調しました。
  心肺蘇生法は、救急医療の観点からは、目の前で突然、倒れた人の状態を、意識の確認、呼吸の確認、頚動脈触知による心拍の確認を行う基本的手技を教える教育法です。特に、「頭部後傾、あご先挙上」の気道確保のやり方、次いで口対口人工呼吸は救急法では習得すべき重要な手技です。
  現在、行われているAED講習は、手技の簡略化が進み、人工呼吸は省略されでいます。もっと問題なのは、講習前の「命の教育」がなされていないことです。

  目の前で突然、人が倒れた時、「大丈夫ですか」と意識を確認し、意識がなければ、大声で「誰か来て」と叫び、駆けつけた人に「救急車を呼んで」「AEDを持ってきて」と必死に頼む行為がなけば命を救うことできません。「助けて」と声も出せない人のために大声で叫ぶ姿に「命を惜しむ」人間愛を感じます。

  声をかける「勇気」、命を感じる「必死さ」
  心肺蘇生法の普及は、「自分ならどうするか」を考え,実行する勇気を持った人間を育てる社会づくりと思います。
 
続く

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