「あなたは愛する人を救えますか」
河村循環器病クリニック 院長
河村剛史

Vol.8:心肺蘇生法は「民主主義教育」

  1998年の新しい風潮として,若者の間で「ジコチュウ」が広がってきている.「ジコチュウ」とは,自己中心のことで,他人の目を気にせずに自分のあるがままに行動し,何よりも自分自身が心地よく感じている新世代人間である.日本の政治経済においても,構造改革,規制緩和の風が吹き荒れる中で,若者の中でも従来の常識に縛られない自己流の生き方を示しているとも言える.
  古来から日本人の道徳感の中で最大の美徳とされているものは,「他人に対する思いやり」である.この道徳感は儒教の影響を受けており,『論語』の中を貫いている「忠恕」の精神である.孔子は「恕」の精神を「己の欲せざる所は人に施すことなかれ」と説いている.事にあたって先方の立場になり,先方の心理状態になって考察してやることであり,あくまでも行為を前提にした精神である.しかしながら,現在の日本では,「人に迷惑になる事はやらない」という自分の行動規範に変化し,「他人は他人,自分は自分」という他人を干渉しない無作為の風潮が「無関心社会」を生み出していると思う.
  西欧における道徳感はキリスト教義に根ざしており,人間愛の精神である.イエス・キリストは,「人の欲する事をやりなさい」と行為こそが愛であると説いており,東洋の道徳感とは正反対の説き方である.心肺蘇生法は人間愛に基づいた行為であるからこそ,突然,目の前で人が倒れた時,「大丈夫ですか」と声をかける事が選択枝のない絶対的行為なのである.目の前の命を救うのは人間の当然の行為という前提に立っているからである.
  心肺蘇生法の普及活動は,「他人の命を守る事が,自分の命が守られている」社会通念を誰にでも容易に理解できる啓発運動である.いくら心肺蘇生法を体得しても自分の命を守る事はできない.すぐ隣の人が心肺蘇生法をしてくれてこそ自分の命が救われるのである.すぐ隣の人は,家族であり,時には友人,隣人,職場の同僚,通りがかりの人かもしれない.心肺蘇生法は,一人一人が「お互いの命を守る>ための社会づくり」に参加する意志表示である.
  人は社会の中で生きてゆく為には,命と財産を守ってくれる社会国家の存在を忘れてはいけない.戦後,日本が受け入れた民主主義体制は,個人の基本的人権を保証し,世界でもっとも安全な国家を誕生させた.しかしながら,戦後50年,日本人は与えられた民主主義による安全と自由を享受していても,自らの基盤に立つ真の民主主義が育っているのだろうか.
  基本的人権の中の「言論の自由」とは,他人の意見を尊重する事が自分の意見が認められる事である.「宗教の自由」とは,他人の宗教を認める事が自分の宗教が認められる事である.別の言い方をすれば,基本的人権は,われわれに与えられた「権利」であるが,われわれはお互いの権利を守る「義務」も課せられている事を知らなければいけない.
  5年前のオウム事件で問題となった新興宗教側の「宗教の自由」とは,一方的な権利主張であり,自分たちの教義を広めるためには,他の宗教を認めるどこらか守っている社会までも攻撃対象とした宗教集団であった.この事件の恐ろしさは,被害者の1人である河野氏を警察,マスコミは犯人像に仕立て上げ,一時的にせよ世間に信じさせた事である.その後の河野氏の抗議活動を通して「人権を守る社会」の未熟性を改めて痛感した.
  昨年の神戸友が丘小学生殺人事件においても,「報道の自由」のもとに展開された事件報道は,被害者の人権,加害者の人権の扱いの不平等性が見られ,必要以上の被害者のプライバシーの書き立てに反し,加害者の徹底的な人権保護の姿勢が見られた.阪神・淡路大震災後の心のケアが問題となっており,凶悪犯罪の被害者およびその家族に対しても心のケアが求められている.
  「関係ないと思うことに差別の芽」の標語のごとく,まさに現在の日本人の無関>心が社会の成熟化を妨げているのである.無関心と「ジコチュウ」が支配した21世紀の日本にならないように,今や社会の中核の団塊の世代の責任は重い.
  心肺蘇生法は,子供達に命を救う方法を教えることにより,命を感性に訴える「命の教育」である.「命の教育」をいかにすべきかが教育現場での大きな課題になっている現在,心肺蘇生法の実技講習は是非行う必要のある教育の一つであると考える.

 続く

Copyright(c) Tsuyoshi Kawamura, M.D.